宮室信洋 blog

宮室信洋(メディア評論家)によるエンタメ、サブカル、アイドル、ネット世論、お笑い、情報社会、政治・経済・社会の記事

2019年テレビ朝日 「M 1グランプリ」(の審査)は実は荒れていた

 

 

 2019年のテレビ朝日M-1グランプリ」は、ふわっとした感じに思うM-1であった。この感覚はさすがに言うだけでは共感が得られないので、データを利用しながらできるだけ客観的に検証してみたい。

 データを使ったM-1の分析というとビッグデータを使った分析がWeb上で見られるが、

M-1に限らずエンタメを対象とするビッグデータ調査というと、情報過多のズレた分析が多いように思う。ビッグデータ調査というのは、あらゆるデータを駆使することにより、客観的な答を得ようとするものであるが、結局はどのデータが重要なのかの目利きがうまくいかなければ駄目だということを示している。特にエンタメ分析ではどこに着目すべきかの価値共有が測れない、いや単に調査者が目星がつかないのだろうか。もちろん調査者の主観を排したいということでもあるだろうが、エンタメのビッグデータ調査をみると、エンタメに興味のない調査者がビッグデータ分析の力を示すために話題のエンタメを使っているのか、あくまで主観を排してビッグデータ分析によって答を導いているということなのか区別がつかないことが多く、どうして分析をしたのか疑問を抱いてしまうものである。

ビッグデータという分析手法自体を疑問に付すわけではないが、ビッグデータなどと言って多数の情報を使わずともいくつかの情報で適切に分析すれば、より核心に迫ったある程度の分析ができるものと思う。そもそもエンタメに対してそのようなちゃんとした分析を施そうとするものはまずない。もちろんそれはそれで良いのだが、せっかくなので私はここではある程度主観(目利き)と客観をうまく統合するような分析を志したい。

 といっても複雑な分析をするつもりはなく簡単なものである。今回の M-1は本当にレベルの高いものであったのだろうか。本当にこれぞという優勝者や最終決戦者が選ばれたのであろうか。この疑問を検討すべく、2019年と2018年、2017年のM-1の審査データを元に、どれくらいの審査員が思った通りの結果になったかを調べてみたい。2019年の審査員のデータを見ると、優勝コンビであるミルクボーイに関しては、全ての審査員が一番の点数をつけている。しかしナイツの塙や立川志らく中川家礼二は、ぺこぱを自身の評価においてトップ3に入れておらず、中でも志らくと礼二はぺこぱに対し相対的に言って高い点数をつけているとは言えない(それぞれ、志らくの中でぺこぱは6位、礼二の中では7位)。代わりに塙と志らくは和牛に対し、ともに彼らの自身の中での第2位の点数を与えている。同様に、2018年、2017年についても審査員がどれほど思った通りの結果になったのか調べてみる。

 2018年のM-1グランプリでは霜降り明星が優勝し、ファイナルラウンドに進出したのは他に和牛とジャルジャルであった。2018年の M-1グランプリは非常に典型的な大会であり、なんとすべての審査員がトップ3以内にこの3組をあげていた。非常にスッキリした大会であったと言えるだろう。この比較だけでも今回の大会のふわっと感はある程度説明できてはいるが、もう1年遡り2017年の M-1グランプリの審査員のデータも見てみたい。

 2017年M-1グランプリでは、とろサーモンが優勝し、和牛とミキが最終ラウンドに進出している。2017年M-1グランプリの審査員点数では、結果との大きなズレを取り上げれば、オール巨人とろサーモンに自身において6位の点数をつけており、また博多大吉がミキに対し、自身において6位の点数をつけている。なお、松本人志は2年連続ぴったりとトップ3を当てていると話題になっているようだが、2017年においてはジャルジャルを1位にしている。翌年2018年のジャルジャルの高い評価に影響を与えているのかもしれない。もっと振り返っても面白いのかもしれないが、以上の比較から十分結論は出せるだろう。

  まず、2018年のM-1グランプリこそ非常にスッキリした誰もが納得の行くような貴重な大会であったといえる。次に、2017年のM-1グランプリの審査員の点数を調べると、評価のばらつきは大きい方であったと思う。またそれと同時に大方納得いく結果であったとも言える。すなわち、全体的にバラついてはいるものの、一部の例外を除いて、ほぼすべての審査員が概ね思った通りの最終ラウンドとなっている。さらに前年までの結果については調べてないので分からないものの、おそらくは似たようなもので、すなわち、パッとしないM-1が続いてきた中で(後でもこの点は確認される)、いつも通りまぁ大体妥当な審査結果と最終ラウンド進出者及び優勝者が選ばれてきたということである。そんな中、2018年に、熾烈な争いの中、霜降り明星というハッキリとした若手の期待の優勝者が現れたということである。

 霜降り明星の優勝が M-1グランプリにとって大きなインパクトを与えたことは、いくつかの数字を見れば明らかだろう。まず、2017年、2018年の M-1グランプリが12月の序盤に行われているのに対し、2019年のM-1グランプリは、12月22日とテレビの特番的には非常によい日程で行われている。まずここで2019年のM-1グランプリに高い期待が寄せられていることがわかる。当然これは前年の結果を受けてのものなので、すなわち、霜降り明星の優勝のインパクトの賜物と言える。個人的なことを言っても2019年の M-1グランプリはいつも以上に見たいという気持ちがあった。やはりこれは前年の霜降り明星の優勝のインパクトの影響だろう。歴代優勝者を並べてみても、M-1復活後の優勝者トレンディエンジェルは今も売れているものの、銀シャリとろサーモンに関してはパッとしないと言わざるを得ない。なお、とろサーモンが実はもっと売れていたとはあまり思わないものの、2017年の M-1グランプリスーパーマラドーナが比較的活躍していたことを審査員点数結果によって確認できることを考えると、今のスーパーマラドーナの停滞を見るにつけ、上沼恵美子批判騒動の影響はある程度あったのかもしれない。霜降り明星インパクトについて話を戻すと、視聴率を見ればこれも明らかで2018年の大会以降17%を超える高視聴率をM-1グランプリは続けて獲っている。2019年の M-1グランプリも勢いは十分あったと言えるので、高視聴率になることは視聴率が出る前から私からすれば予想できたことであった。少なくとも今年2020年までは M-1グランプリの視聴率も安泰だろう。

 さて最後に本題の2019年のM-1グランプリについて話をまとめよう(さらに年数を遡って検討しないのも本題は2019年のM-1グランプリについてだからである)。2019年の M-1グランプリの審査員の点数を見ると、全体的にまとまってはいるものの内部に大きなズレを有するものであった。すなわち、ぺこぱの点数である。単純に考えれば、ぺこぱだけ賛否両論であったと考えることもできるが、それだけならぺこぱは負けていたであろう。こう書くと、和牛が陥れられたというようなことを想像してしまう人もいるかもしれないが、審査員が徒党を組むわけでもあるまいし、そのような陰謀論的な結論にはならない。私が考えるに、これまでの M-1グランプリではぺこぱは最終決戦に進むことはできなかったのではないだろうか。これだけ変わった漫才が評価されたのは、審査員たちの新しいものに対する不安ゆえであると思う。つまりはここでも霜降り明星の優勝のインパクトが影響していると思われる。そもそも決勝進出者を見ても今回は知らないコンビばかりだという感想があった。ひょっとすると M-1グランプリ全体で新しいものを歓迎する示し合わせがあったのかもしれない。とはいえ決勝審査員にはそのような示し合わせはおそらくはしないだろう。つまりは空気感からして新しいものを歓迎しようという空気が霜降り明星の優勝の影響で生じていたものと思われる。2019年の M-1グランプリのふわっとした違和感はここにあったのだろう。2019年M-1グランプリは、2018年のM-1グランプリの優勝者霜降り明星の影響で新しいものがとりわけ歓迎されたM-1グランプリであったのだ。最終決戦で松本人志だけかまいたちを選んだのも似たような感覚が影響しているのではないか。私は、2019年のM-1グランプリの審査は荒れているように実を言うと感じていたわけだが、調べてみると、ぺこぱを代表として新しい漫才への評価に前のめりとなったM-1グランプリとなったと思われる。しかしこの傾向が次回以降続くのかどうなるのかもまた不安定である

テレビ東京佐久間宣行プロデューサーが手掛ける青春高校3年C組MV

 2020年1月22日にメジャーデビューする番組発の女性アイドルグループ「青春高校3年C組」のMVが2019年12月20日金曜日に公開された。「青春高校3年C組」は秋元康テレビ東京の有名プロデューサー佐久間宣行によるバラエティ番組である。当初は生放送で平日に毎日、曜日がわりの芸人MCとNGT48の中井りかのサブMCで放送されていた(現在は生放送をやめ収録)。かつてのフジテレビ「夕やけニャンニャン」を彷彿とさせるように、一般の学生を募集し、番組をつくる企画であった。合格した学生らは、ツインプラネットに所属し、生放送バラエティでどんどん洗練されていった結果、それぞれがアイドル部や軽音部などにグループ分けされ、ライブを重ね、ユニバーサルミュージックよりメジャーデビューすることとなった。

佐久間プロデューサーは、現在テレビ東京のプロデューサーでありながら、異例なことにフジテレビ系列のラジオ局ニッポン放送で「佐久間宣行のオールナイトニッポン0」という冠番組を持っている。これも番組サブMCの「中井りかオールナイトニッポン(AKB48オールナイトニッポン時間帯での特別番組)」に佐久間が呼ばれて出演したのをきっかけとするものである。佐久間は自身のオールナイトニッポン0で青春高校MVを撮ることとなったいきさつを説明している。佐久間は映画にも詳しく、有名映画監督らにMV監督を依頼し、興味を持ってもらい、夢見心地でいたところ、残念ながら1人もスケジュールが合わなかったという。そんな中、12月21日に納品しなくてはならず、MV撮影可能日もすでに15日と16日の2日間しかなく、番組演出の三宅優樹もゴールデン特番前日で空いておらず、ちょうど佐久間プロデューサーは両日空いていたという(実際は両日中にも収録があり、抜けている)。佐久間がやるからにはお笑い要素があるものだろうということで、有名トレンディドラマのパロディをメンバーが演じていくものを予定していたが、楽曲を改めて聴いてみたところ、ずっと頑張って来た生徒達のデビュー曲がお笑いネタでいいのかと思い、それぞれのメンバーの告白10秒前から撮るという設定の正統派MVとなった。

12月20日のMV公開生放送では、金曜日担当のバナナマン日村勇紀東京03の飯塚悟史がMCを務めた。番組ではMV撮影の様子がまず放送された。先程の詳しい説明までは放送内では明かされていないので、先程のいきさつを踏まえて観ると、臨場感がかなり変わってくるだろう(LINEライブで一定期間、放送終了後の放課後トークも含めた完全版を視聴できる)。青春高校アイドル部の前作「青春のスピード」MVを製作した松本壮史監督の協力があるとはいえ、佐久間が映画に精通しているからか、メジャーデビュー曲「君のことをまだ何にも知らない」のMVの出来は、お笑い番組プロデューサーが手掛けたものと思えない程優れたものとなっていた。曰く、ずっと生徒達を見てきた佐久間プロデューサーだからこそ撮れるMVということで、まさしくそうなのだろう。青春高校3年C組メジャーデビュー曲「君のことをまだ何も知らない」は、乃木坂46の楽曲で有名な杉山勝彦作曲で作詞はもちろん秋元康である。AKB48以来、アイドル楽曲はMVと合わせて表現するものとなっている。本MVは、楽曲をMVの物語で肉付け、振り付けの良さを魅せ、13人一人一人を欠かさずフィーチャーし、全盛期AKB48のような疾走感と、青春の響きのあるイントロや切なさの残るメロディ、NGT48「世界の人へ」のような秋冬感あるコーラスを印象的なものとする、これぞAKB48ファンが永らく待ち続けていたというべき完成度の高い王道MVとなった。

この放送も非常に優れたものだった。日村はMV視聴後それぞれのメンバーと共演した男子生徒を労い、東京03飯塚も、メンバーらの告白直前シーンを先に見せておいて、最後の大サビ前で全員の告白シーン(センターの頓知気さきなが命名した「好きですラッシュ」)を畳み掛けていく構成にしっかり触れながら、感動していた。2人ともMVを一見するだけでしっかりとそのMVの魅力を放送内で解説し切っていたと言える。日村はテレビ東京「乃木坂工事中」で国民的アイドルである乃木坂46と共演していることはアイドル界では有名であるし、飯塚もテレビ朝日ももクロchan」ですっかりMCポジションに落ち着いたのは知られていることだろう。それぞれが国民的と言えそうなアイドル達の面倒を見てきている。特に日村は、バナナマン乃木坂46を取り仕切っているとはいえ、ピンでここまで学生バラエティをうまく対応できるとは驚きであった。このような番組は、単なるMCやお笑いの才能という以上に、生徒といかによい距離感で愛情を持って接することができるかが視聴者へ与える楽しさにつながってくる。MCや佐久間プロデューサーをはじめとするスタッフの大人達が、親心とでもいうべき大人の生徒への一般的な愛とともに優しく時には厳しく(本放送内VTRでも生徒の1人川谷花音が胸を強調するパジャマを持参した際にはMV監督として佐久間はしっかりと愛情を持ってこれを否定するシーンもあった)作品がつくられる過程は、昨今、大人が就活中の若い女性をホテルに連れ込む事件などを見ても、あるべき模範である。放送でも一人一人に感想を振り、バラエティ性の強い生徒である女鹿耶子や胸を盛る準備をしていた川谷花音に終盤振れば2人とも笑いを巻き起こし、生徒の仲の良さを示すなど、奇跡的なまでの掛け合い、ハプニング等、生放送ならではの面白さで締めていくあたりが、これまたよくできている。フジテレビ「笑っていいとも」が終わって以来生放送ならではの面白さを演出できていたのは青春高校くらいだろう。カナダ人の父も日本でタレント活動をしているハーフ(ダブル)の生徒であるボールドウィン零や3期生の兼行凜が触れたように、13人全員の物語をMVに入れ込んだあたりに、番組プロデューサーである佐久間ならではのMVに仕上がった。一人とて蔑ろにしないというのはファンが望む理想ではあるが、単に一人一人平等に扱ったところで、散漫な印象のグループになるようではただの悪平等でしかない。毎日生放送をしながらつくり上げてきたグループだからこそ、個性的なグループが成立し、佐久間プロデューサーが監督を務めたからこそ完成したMVなのであった。計画が頓挫した結果、最もよい結果となったというのは青春高校の仕掛け人である秋元康がいかにも理想とするような奇跡的調和であった。

佐久間プロデューサーは、テレビ東京「ゴッドタン」というバラエティ番組で有名になった。長年続くその番組は、その間に、MCのバナナマンおぎやはぎ劇団ひとりが、特には前2組が、フジテレビ「とんねるずのみなさんのおかげでした」で準レギュラー化することで、大きく育った。その素地をつくり上げたのはまさしく「ゴッドタン」であった。お笑いバラエティプロデューサーというと最近では、テレビ朝日加地倫三プロデューサーとTBSの藤井健太郎プロデューサーがあたかも2大プロデューサーかのように有名である。この2人が有名なのは、視聴者目線によるお笑いファン的な偶然的なバイアスに過ぎないのかもしれないが、まさしく、佐久間が今回のMV監督選考VTRで冗談めいて言ったように、佐久間プロデューサーをそこに加えてこそ3大プロデューサーとして(むしろもっと他にもさまざまな有能プロデューサーがいるはずで、3という数字が本来疑わしいが)、相応しいだろう。佐久間プロデューサーは、最近、この青春高校を皮切りに、「オールナイトニッポン0」を持ち、年明けのNHK「新春テレビ放談」も連続して出演し、再び注目度が高まっていると言えるだろう。私は、タレント重視というよりは企画重視の加地、伊藤両プロデューサーよりも、タレントを中心に据え、タレントを活かし、面白い番組をつくろうとする佐久間プロデューサーの方に好感を持つ。インターネットの登場により、芸能人の相対化が進む昨今において、タレント中心か、企画中心か、どちらがよいのかは難しい問題ではあるが、テレビにはしっかりしたスターもいて欲しいと考えると、佐久間プロデューサーのあり方を私は支持してしまう(アドルフ・ヒトラーよりは北野武タモリなどのカリスマがいてくれる社会の方がよいという解釈も可能かもしれない)。いずれにしろ佐久間プロデューサーの番組づくりの特徴にそのタレント愛が挙げられよう。

本MV作品はよく練られた構成となっている。既述の通り、「好きですラッシュ」の溜めとして、告白シーン直前までの様子がMV全体のメインとなっている。その展開もよく練られており、トリのセンターの頓知気さきなに至るまでに、兼行凜の先生へのフリップを使った告白、川谷花音のLINEを使った告白、そして最後に前川歌音と黒木美佑の百合告白へとだんだんと凝った趣向へと至る展開もある。東京03の飯塚も真っ先に触れたように、川谷のLINEでの「好きです」を書いたものの削除する葛藤と、好きですラッシュの中に唯一口ではなくワンタップで送信という告白手法が入っているのも今時らしく、また「好き(絵文字)」と送ってしまったという口頭よりも実は投げつけるような思い切りのある告白となっているのも切なく、面白い(LINEでの告白は、いつ既読になるのかなど、今時ならではの簡易な告白と切り捨てられない情緒が今やあるとMVからも伝わる)。生放送で初視聴だったメンバー達の反響も、この川谷のLINE告白が最も大きなものであったといえるだろう。最後の前川と黒木の百合告白は、サビを挟んで後の間奏で登場するというのも特別感が増している。前川は最近は表情で訴えかける演技をよく魅せており、ここでも表情で訴えかける切なさの表現がよく活かされている。黒木は「告白するよりされる方がかわいい」という佐久間のアイディアより、百合設定となった。佐久間はこのMVを「全員可愛く撮れた」と自負しており、細かなシチュエーションがそれぞれのメンバーに合ったものとなっている。放送では、告白の成功失敗も想定して、最後のシーンで、明示的ではないものの連続で見せていると明かした。このような裏設定すらある本MVは、決して既述のイメージにある突貫工事ではなく、むしろ、難航するよりすぐに思い付いたものの方が出来が良いという創作のパターンだろう。

春高校3年C組メジャーデビューシングル「君のことをまだ何にも知らない」は、振り付けもステップを中心とした躍動感あるもので、途中には胸を締め付けるような振りも入っており、非常に印象的なものとなっている。杉山勝彦による曲も、青春高校アイドル部の前作「青春のスピード」に比べると全体的に抑えめな曲調になっているものの、全体的に切なさを感じさせる曲調であり、それでいて全盛期AKBを思わせるような軽快感あるイントロと印象的なメロディで構成される。丁寧なつくりの楽曲であり、その分何度も聴くことで良さがどんどんと噛み締められるスルメ系に属する奥深い楽曲だ。その抑えめな表現を本MVによって、十二分に表現し、また何度も聴くことを促せるMVとして完璧といえる内容になっている。映像も、佐久間監督の映画通のノウハウか、洗練されており、全体的に落ち着いたトーンで、衣装も坂道グループを思わせるような映像に合ったシックで清楚なものとなっており、秋冬のモードで全体が統一されている。楽曲含めて、AKB48と坂道グループの融合を目指していると言って過言でないのかもしれない。佐久間プロデューサー自らが撮ったMVによって、青春高校はさらなる絆を、MCら、視聴者ともに一体のものとしたことだろう。佐久間プロデューサーのMVを中心とする、よくできた楽曲と振り付けの見事な組み合わせは、本デビュー曲をいきなり大ヒットに導きうるものである。とはいえ、夕方の番組からのアイドルグループで、48や46のネームが付いているわけではないグループであるのでいきなり世間に届くかは疑問である。またMVで完成される作品ならば楽曲だけでは弱さがあるかもしれないとも言えるが、デビュー曲でもありMVの訴求力は高いだろう。当面のライバルは同じ番組発秋元康プロデュースのラストアイドルとなるだろうか。しかし、今までにないメンバーの充実と企画への力の入り方からすれば、ラストアイドルを超え、欅坂46のようにデビュー曲から跳ねる展望も期待できる。非48・46グループからの堅実な成功例といえば、秋元康ではないが関連する指原莉乃プロデュースの=LOVEが挙げられる。青春高校という新たなエンターテインメントの形に期待したい。

これからは芸人・永野の時代だ

 2019年10月3日、NHKの「有田Pおもてなす」という番組に竹中直人がゲストとして登場していた。この番組は、1人のゲストのリクエストに合わせて、芸人がネタを披露する番組である。

 竹中直人は、自身の持ちネタである「笑いながら怒る人」などを2018年キングオブコント王者のハナコにコントの中に取り入れるよう要求した。竹中直人は、予定調和の笑いが好きではないと笑いの好みを説明していた。竹中直人はもともと、お笑いで世に出てきた。当時、「TVジョッキー」という番組のザ・チャレンジという素人お笑い勝ち抜きコーナーで初代チャンピオンになるなどし、そのコーナーの3代目チャンピオンはとんねるず石橋貴明であった。

  「有田Pおもてなす」、2つ目のコントでは、2016年キングオブコント王者のライスに対し、予定調和が嫌いな竹中直人らしく「コントの最中に何かが起こる」というリクエストをした。コントの途中に加山雄三のそっくりさん芸人(ゆうぞう)が乱入したり、また永野が乱入し、自由にネタを披露していった。予定調和を破壊する芸人といえば永野だということだった。

  先程も書いたように、竹中直人とんねるずと同世代のお笑いだった。その頃のお笑い界やテレビは、比較的自由だったのだ。お笑いはその頃より、コンビが主流になっていったり、CMに行きやすいようなオチを入れる計算がされていくなどして、どんどん洗練されていった。これらを主導したのが、明石家さんまダウンタウンだった。しかし、それはお笑いのシステム化とも言える。明石家さんまダウンタウンは特にプロとしてのお笑いを目指し、技巧を洗練させ、笑いのパターンを確立していった。しかし、お笑いのパターン化はお笑いの本質さや芸術性とは矛盾するものである。社会システム理論家のニクラス・ルーマンという現代を代表する社会学者も、芸術の本質を新奇性としている。芸人ならばパターン化された笑いではなく、新しい見たことないものを見せて笑わせたい、そこには芸術性が宿されているのだ。ちなみに明石家さんまダウンタウン松本人志では、ここに大きな違いがあり、明石家さんまはパターンの笑いを追求し、松本人志は笑いの芸術性を追求している。プロの芸人ならばいつでも笑わせることができるべき、明石家さんまの場合はこの発想から、笑いのパターン化を追求し、芸人のプロ性の追求は必然的にこの方向へと至る。

  社会のシステム化、パターン化は消費社会論で著名なジャン・ボードリヤールから導くことができる。大量生産の先にある様々な色違い商品は、小さな違いを生むといえども、やはりそれはパターン化へと至る。見慣れた商品やエンターテインメントは、あらゆることがらのパターン化された社会へと至る。それを、どれが本物でどれが偽物かの区別がつかない物で溢れているパターン化された「シミュレーション社会」という。そのパターン化されたシミュレーション社会を克服し、あたかも本物の何かを求めるかのごとくという中に挑戦的なお笑いが存在する。

お笑い芸人が有り余り、ひな壇というスタジオセットに多数の芸人が並び、短い時間のやりとりでしか自分を表現することができない。関西よしもと流の、ひとネタ振って、いつものひとネタが返ってくる中で「笑いが成立した」とされるお決まりなやりとりを素地にすると、その場で生み出される新しい笑いのやりとりの自由は奪われる。「笑いの成立」のシステムの中で、サラリーマンに限らず、サラリーマン的になった芸人が歯車として扱われる。偉大な社会科学者カール・マルクスのいう「物象化」である。スター芸人が現れなくなった背景もこうしたところにある。今回のゲストで登場した芸人の永野はある程度の尺を持つ自分のネタを比較的自由に入れ込めるいかにも自己表現が強い芸人の代表である。今回の番組ゲストであった竹中直人やその同世代のとんねるずも、自己表現が強く、予定調和を嫌うシステムの笑いの批判者であり、彼らがよしもと芸人と合わないのもはっきりとした故あるものである。

ちなみに、竹中直人に憧れる、よしもとの経歴も持ついかにも予定調和破壊芸人ハリウッド・ザコシショウは、予定調和破壊ポジションを手にしつつも、笑いのパターンに入り込めるやり方をも手にしている。また、よしもとの予定調和破壊型芸人くっきーは、テレビ朝日「ロンドンハーツ」で、とんねるずからの多大な影響に言及している。 

 この記事の具体的な芸人は、上記の通り、永野がその代表事例であった。この記事は冒頭の通り10月初旬に起草したものである。この記事を書いて以来、「そういえば永野は最高な芸人だった」と思ったものであったが、かといってそうは言っても、永野がこれ以上テレビで活躍するビジョンは正直見えてなかった。そうこうしているうちに永野を最近ちょっとずつテレビで再びよく見るようになってきた。

今後も永野をよく見ることが期待できる番組は1つはやはり同じく有田哲平のフジテレビ「全力!脱力タイムズ」である。最近はアンタッチャブルを復活させた番組として、これまた注目されている。元々、有田哲平ザキヤマこと山崎弘也の兄貴分的存在なので、この番組でアンタッチャブルが復活するのは、むべなるかなというところであるが、有田哲平が永野を重用するとはなかなか驚きなことである。しかし有田哲平はホリケンこと堀内健と昔から仲が良く、以前は2人でテレビ東京で「アリケン」という番組もやっていたことを考えれば、このような芸人の使い方もなるほどというところである。有田哲平自身は、すごくベタなボケを中心としていたり、昔はザキヤマとともに寡黙なキャラをやってみたり、不思議な芸人ではあるが、「脱力タイムズ」で見られるように、芸人のプロデューサー的存在として重要な地位を占めていると考えることは大いにできる。「脱力タイムズ」では、コウメ太夫をうまく使っていたり、 コアなお笑いファンからすると、 非常に求められているものをなしており、また芸人の名プロデュース番組であると言える。脱力タイムズは、今後もお笑い界において重要な位置づけをなす番組であろう。

 なお、永野は、最近では、斎藤工のおすすめ芸人として再びよくテレビに出ている。以前から斎藤工はお笑いに寄り添うような仕事の仕方をしていたが、まさかここまでコアなお笑いの趣味であり、フィクサー的な動きをしてくるとは誰もが驚いたことであろう。斎藤工もコアな好感度をここにおいて上げていっていることと思われる。こうした動きは、お笑いの硬直化を防ぎ、お笑いの進化を保障するものだ。永野こそ今こそ求められ、時代を切り裂く芸人の1人だと言えよう。

道徳性が暴走する木下優樹菜のタピオカ店騒動

 2019年11月18日、木下優樹菜が活動自粛を公表した。これは木下優樹菜の姉とその友人とのタピオカ店店長との間でのトラブルに対し、木下優樹菜Twitter上のDM(ダイレクトメール)でタピオカ店店長に対し恫喝をしたとして騒がれているものだ。

 しかしこの騒動もまたやたらと一方的な展開である。この経過の初期を見ていたものならわかることだが、木下優樹菜の姉は Instagram に長文を投稿している( https://oricoma.com/entertainer/10590/ )。このサイトにもあるように、 木下優樹菜姉妹側の言い分は簡単に見ることができる。簡単にまとめれば、元々、木下優樹菜の姉のママ友であったタピオカ店店長は、やたらと不当に木下姉妹をタピオカ店経営に利用したということだ。妹である木下優樹菜も宣伝に使われてしまって姉としては問題視せざるを得ないのは当然であろう。一方の主張を鵜呑みにはできないとしたとしても、この騒動は、簡単に、一体誰が悪いのか迷うようないざこざを見てとることができる。 

 しかしながら世論やネット世論は一方的なものである。特には何を持ってしても「恫喝は悪い」と一言で済ませようとする意見が多い。何が木下優樹菜をそんなに怒らせたかということを考える意見は皆無と言っていい。しかし、姉への仕打ちや木下優樹菜というタレント商品を利用したことを考えれば、木下優樹菜の怒りは妥当であるし、厳密に考えてしまえば、木下優樹菜への宣伝料は結構な額になるだろうし、それは所属事務所を通してのビジネス上の取引となることは当然である。よって事務所が怒ったとしても当然なことである。

 ネット世論の重要な引っかかりはこの所属事務所というところに1つあった。木下優樹菜の所属事務所はバーニング系事務所プラチナムプロダクションであるので、芸能界で大きな権力を持つネット世論のある種のキーワードでもある「バーニング」という名前に1つのネット世論の引っかかりがあったのである。

 また木下優樹菜のイメージも元々微妙なバランスにあった。木下優樹菜のブレイクはいかにもフジテレビ「ヘキサゴン」という番組であり、いわゆるおバカキャラとしてブレイクした。またヤンキーキャラを持っており、FUJIWARA藤本敏史と結婚してからは、実はしっかりしたヤンママキャラとして、好感度夫婦のイメージをウリにしていた。

 元々微妙なバランスでの高い好感度と、それへの反動によるスキャンダルでのバッシング、そして何を言っても最終的には否定されてしまう、何を言っても「恫喝が悪い」の一言で叩かれてしまう、この現象はまさにベッキー騒動を思い起こさせるものである。数年経って落ち着くと、ベッキーの何が悪かったか、今は Web 上ではここに、ベッキーは会見などで「嘘をついたから悪い」と結論付けられることが多い。元々ベッキー川谷絵音の結婚を知らされていなかったとされている。つまりベッキー川谷絵音に騙されていたわけだ。しかし事細かにベッキーはいかにも共犯扱いされてしまう。そして結局何が悪かったか、結論として会見での「嘘が悪い」などと言われてしまう。このケースでは、結局「嘘をついた」がゆえにベッキーは多くの仕事を取られてしまったのかと、今回の木下優樹菜騒動以上に、おかしな一言総括がされてしまう状況である。ネット上の世論は、ますますここに来て、短絡化が進んでしまう。こうした状況では、芸能界や事務所側もなんとか騒動を鎮めたいと思うのは無理のないことである。こういう状況では、マスメディアも芸能人を守ろうとすると、徒党を組んでいるものとして叩かれてしまうし、権力事務所が言論を統制していると事実とは無関係に批判されてしまう。

 明石家さんまはこの騒動に対し、インターネットの出現による表現上の問題を指摘している。もちろんこれに対してもネット世論は、明石家さんまのイメージとしては古い業界の人間であり、常に芸能人を守るというイメージがあるので、時代錯誤として一蹴されてしまう。しかしこれもよく考えれば、元々はママ友同士なのだから本来は話し合いや言葉の応酬で解決するはずのものであり、「事務所総出」というといかにも暴力団的な恫喝に聞こえてしまうが、そのような恫喝であったのかは、もしも対面での言葉の応酬であれば表現の仕方が変わっていたことは大いに考えられる。通常の話し合いでは相手がなぜ怒っているのかを互いに探り合い話し合うものである。既述の通り、怒る側には怒るだけの理由があり、Web上に現在出ている情報をそのまま受け止めれば、木下優樹菜が怒る理由も正当なものである。既述の通り、事務所が出てきて対応しても全くおかしくない事態である。

 管賀江留郎の『道徳感情はなぜ人を誤らせるのか 冤罪、虐殺、正しい心』という著書がある。冤罪事件を詳細にとりあげた上での終盤の分析に評価がある。タイトル通り、冤罪事件はなぜ起こるのか、それは人々が正しい心を持とうとする道徳感情によるものだということである。人々が容疑者に鞭を打とうとする人々の沸騰した状態を著者は「市民の間に盛り上がる囂々たる空気」と表現している。インターネットの出現は、これをいかにも表現しやすくなった。木下優樹菜の騒動もベッキーの騒動も、単にこれまで全面的に支持できなかった芸能人を叩けるチャンスが来ただけなのではないかと見ることもできるが、人々の冷静な思考を停止させているものがあるとすれば、それはまさに道徳感情による悪を罰したいという正義感である。著書では、アダム・スミスの『道徳感情論』と現代の進化生物学をリンクさせながら道徳感情がいかに人を誤らせるのかを説明する。大雑把に要約すれば、助け合うことが自身を最も生きながらえさせるということからくる、人類に埋め込まれた道徳感情だということである。良いことをしていれば間違いなく報われるはずなのだという感情であり、公平に悪いことをしている者は罰せられるべきだという感情である。そして自分が正しいことをしていると思っている時は冷静な判断を失い、結局は正しくない行動を、誤った行動を人間はしてしまいがちなのである。著書ではこれをアダム・スミスの古典的哲学を出発にしつつ、虫も動物も古代人も現代人も共通にしているはずの生物の生態を進化生物学でもって、著者は説明している。 

 私は Web 上の批判(炎上)による芸能人の追い落としを最初に跡づけたのは2007年の沢尻エリカの「別に」騒動だと記憶している(カウントの仕方にもよるが)。当時はネットメディアも乏しく、J-Castというネットメディアがネット世論に公的に与している程度であった。つまり、これがYahoo!トップに掲載されることで、ネット世論の権力は一段大きく上がった。沢尻エリカの「別に」騒動は、実際はネット世論以上に、業界内を騒がせたということが大きかった(中山秀征の日本テレビラジかるッ」という番組での態度も不評を買った)。しかし、まもなくして2008年、倖田來未の「羊水が腐る」発言の炎上はまさしくネット世論の力で発言を周知させ、倖田來未を謝罪に至らせたと言えよう(これも数年後には(当時からも言われていたが)、倖田來未の発言は正しかったじゃないかとWeb上で度々言われてしまう始末である。倖田來未はこの事件を機に落ち目になるのを促進させている)。奇しくも最近の2019年11月16日、沢尻エリカ大麻所持で逮捕されている。 

 これらから約10年経ち、ネット世論の短絡化は極まった感がある。ネット世論の冷静な思考を鈍らせているのは道徳感情であるのはそうだが、一方で、発言者やターゲットが誰かによって叩かれ方がまったく違ってくるというのも否めない。木下優樹菜の姉のママ友であるタピオカ店の店長は、木下姉妹への不当な扱いが多々あったにもかかわらず、悪く言ってしまえば、木下優樹菜を陥れるに十分であるDMを得たことで一方的な勝利を手にしてしまった。いや、本来は双方の言い分を巡ってWeb上で応酬や論争がなされるはずではなかったのか。 悪く言ってしまえば、木下優樹菜といういかにも批判されそうなタレントによるいかにも批判されそうなDMを得たことによって、いとも簡単に一方的な勝利を手にしてしまったのである。ネット世論を味方につけることでの一方的な勝利といえば、(元)NGT48の山口真帆へのファンによる暴行騒動が思い起こされる。この騒動自体のここでの詳述は避けるが、込み入った様々な問題が、山口真帆によるネットイナゴとでも言うべき存在の誘導によって、問題の拡大が起こったのは間違いのないところであろう。山口真帆との関係がどうであるかに何の根拠もないにもかかわらず、NGT48メンバーへの脅迫による逮捕者も幾人か出ている始末である。まさしく(それと言うにはあまりにも短絡的に生じた)冤罪被害者が(ネット世論による私刑だが)多く出た感のある騒動であった。2019年のネット世論は、ともすれば、ネット世論を簡単に操ってあらゆるメディアや世論を誘導できる時代に進みつつある一歩を踏み出したかのようにみえる。

政治言論がそうであるように、Web 上の言論によって、リアルの意思決定がそのまま動かされるようではいけないのではないか。Web 言論の間接民主制(権力の分散)を果たすべく、ネットメディアやマスメディア、番組スポンサー企業が、もっと自律的に考えて、社会的責任、倫理性を果たせるようにならなくてはならない。

AI美空ひばりが今後の情報技術(IT)のメルクマールである理由

 2019年9月29日放送のNHKスペシャル「AIでよみがえる美空ひばり」という番組が話題を呼んだ。これはAIの技術により美空ひばりの歌声を再現しようというものだ。既存の曲であれば過去のVTRを観ればいいわけだが、これはAI技術により、美空ひばりが過去に歌ったことのない新曲を歌わせようというものだった。その新曲の製作には秋元康らが携わった。

 この記事では、その試みがどのような現代的意義を帯びているかを解説したい。ただ、この番組には否定の声もあったようだ。その大きなものは死者の扱いに関してのものだ。ただし、この記事では、そのような倫理的側面について扱うものではない。

 このAI技術は、美空ひばりの声を元に、新曲を美空ひばりが歌えばどう歌うかをシミュレートするものだ。当初は機械的だと否定されながらの試作であったが、ブレ幅を大きくしながら、美空ひばりの生の歌声の魅力を再現していった。「シミュレーション」とは、人文・社会科学の領域では、消費社会論で著名なジャン・ボードリヤールの用語として知られている。「シミュレーション」とは、簡易に言えば、本物・偽物の区別がない(偽)物ということだ。この技術によって、歌手としての美空ひばりは現代に蘇り、再び新たな曲を歌うことができる。

 そこにおいて、秋元康のプロデュースは素晴らしいものだった。新曲は「あれから」というタイトルで、歌詞は「あれからどうしていましたか?私も歳をとりました 今でも昔の歌を 気づくと口ずさんでいます」というもの。また台詞も用意されていた。「お久しぶりです。あなたのことをずっと見ていましたよ 頑張りましたね さぁ 私の分までまだまだ頑張って」。美空ひばりが亡くなった後も歳を重ね、まるで生きていたのかのような、いや亡くなっているけど近くでみてくれていたような、それはどちらでもよいのだが、美空ひばりがこれまで生きてきた私達に久しぶりに再会するような歌詞であった。美空ひばりの息子である加藤和也もこの企画にもちろん関わっており、その完成を観て涙していた。同じくこの企画に携わった秋元康天童よしみらも涙していたが、この台詞は、息子である加藤和也にこそ響くものだったのは間違いない。とはいえ、日本国民すべてに語りかけていたといっても過言ではなく、美空ひばりが神として再臨した感すらあるものだった。歌詞の最後は「振りむけば幸せな時代でしたね」と締めくくられる。日本はとりわけバブルで栄華を極めた国だ。昭和のスターがともに平成を私達と同じ視線で振り返り、語りかける。昭和世代の国民に、とりわけ響く言葉だったろう。

 AI美空ひばりの出来は素晴らしく、美空ひばりが歌うからこそあらゆる曲が感動的な曲となる。しかし、今後もAI美空ひばりは新曲を発表していくのだろうか。AI美空ひばりが次々と日常的に新曲を発表するのは、やはり違和感があるだろう。それは生死の一回性を無にする虚しさに由来するものだろう。魂が実在するかはともかく、そこには魂のなさがどうしても障害となるだろう。哲学者ヴァルター・ベンヤミンは、伝統(本物さ)と一回性に基づくものを指して「アウラ」の存在を指摘した。現代の大量生産されるものは伝統(本物さ)と一回性を失っている(「アウラの喪失」)ということである。生の倫理性や魂の話は厄介であるが、伝統(本物さ)と一回性のなさをAI美空ひばりの通常的活動に対し、指摘することは可能である。

 ただ、今回のように一回だけ実験的に美空ひばりを蘇らせるということは受け入れ可能だろう。紅白歌合戦への1度だけの出演もいいだろう。情報技術(IT)は、今後も現実社会に夢を与えてくれるものとして活躍する。本物だと言えるものがなくなってしまったシミュレーション社会で本物を求めることも大切だが、そのような社会だからこそ、本物とは言えないのかもしれないけども本物だと思うということも大切だ。社会学者の宮台真司はこれを<虚構の現実化>と呼び、一面的であるともいえるが必要なものとして肯定している。AI美空ひばりを日常化して凡庸化しても価値を喪ってしまうが、時折蘇るものとして活用することはこれからの情報技術(IT)のまさしく活用法である。息子加藤和也にとってそうであったように、ITやAIによって、身近な死者を蘇らせる手段としては今後日常的に(それこそ頻繁ではいけないが)使用されるだろう。死者が還る儀式は日本ではお盆として日常的に知られている。それがITやAIによってよりリアルに行われる日も来るだろう。宗教儀式がITやAIの技術によってリアルなイベントとして大復活することもあるだろう。美空ひばりが神第1号として再臨したのもゆえなしとするところではなかったのだ。AI美空ひばりはAI技術のお手本と言って過言でないのである。